違和感に向き合い、自分の可能性を解き放つ——慶應義塾大学体育会ソッカー部OB 潟中弘貴
1996年生まれ、静岡県出身。慶應義塾大学SFC卒業。U-16サッカー日本代表キャプテンを務め、トビタテ留学JAPAN日本代表6期生としてアフリカに渡航。教育事業の立ち上げ、地域共創ベンチャーでの拠点責任者、スタートアップでのコミュニティ事業責任者を経て、現在は複数の人材・教育・コミュニティ事業に携わりながら「誰もがチャレンジできる社会」の実現に取り組んでいます。今回は、慶應義塾大学体育会ソッカー部(慶應義塾大学ではサッカー部をソッカー部と呼びます)OBである潟中弘貴さんに、学生時代の葛藤と挑戦、そしてその経験が現在のキャリアにどのようにつながっているのかを伺いました。
——現在はどのようなお仕事をされているのでしょうか?
現在は、教育やキャリア支援、コミュニティ運営に複数の立場で携わっています。これまではレバレジーズでIT人材領域の法人営業(RA)として100社以上の採用支援を担当し、その後はFoundingBaseにて、山口県の教育事業立ち上げに従事しました。教育委員会と連携し、探究型のオルタナティブスクールをゼロから立ち上げ、塾長として現場運営も担いました。その後、Z世代向けキャリア支援を行うベースミーに参画しました。カスタマーサクセスとして50社以上の法人を担当しながら、学生アンバサダーコミュニティの立ち上げにも携わりました。現在は個人事業主として、人材会社支援や教育機関でのチューターなど複数の仕事をしています。一貫しているテーマは「Unlock Potential」です。誰もが持つ可能性を最大化できる環境をつくることです。

——サッカーはいつから始められたのですか?
幼稚園からです。兄の影響と、当時の担任の先生がサッカー指導が得意だったことがきっかけでした。サッカーに本気で向き合い始めたのは中学生の頃です。ダメ元で受けたジュビロ磐田の下部組織に合格しました。そこで出会った監督の存在が、今でも私の原点になっています。「努力をしなければ何も始まらない、目標は背伸びしろ」と教わりました。実は下部組織に所属した当初は、中学3年生の夏までレギュラーになることができなかったのですが、陰でとにかくコツコツ努力を続けることをやめませんでした。その積み重ねが評価され、世代別の日本代表に選出されるようになり、ゲームキャプテンを任されるまでになりました。サッカーの技術以上に、人として物事にどう向き合うかを教えてもらった経験が、今の自分の土台となっているように実感しています。

——慶應義塾大学体育会ソッカー部ではどのような日々でしたか?
文武両道を最も体現できる環境だと考え、慶應義塾大学への進路を選択しました。元々サッカー選手になるということは目標にしておらず、将来のキャリアははっきりと決まっていたわけではありませんが、勉強もしながら自分自身の今後について深く考えていきたいと思っていました。ソッカー部でのポジションはサイドバックで、プロを目指す選手も多い環境でした。充実した部活動での生活は送れていたものの、サッカーと学問を本気で両立したい自分との間に徐々にギャップが生まれていきました。アルバイトは禁止で社会との接点も少なく、サッカー選手ではない未来を思い描いていた私にとって、学問との両立を求める中で、サッカーだけに多くの時間を費やされてしまう環境に違和感を覚えるようになりました。何より大学での授業の面白さに惹かれ、やはり学問をより深く突き詰めていきたいと感じ、2年で退部することを決意しました。

——退部後はどのような道を選ばれたのですか?
1年間休学し、トビタテ留学JAPAN日本代表として南アフリカ、イタリアへ渡りました。日本代表選手としてアラブ首長国連邦に試合で訪れた際に、文化の違いを肌で感じたことと国際関係に関する授業を受けた際の衝撃がきっかけです。難民支援や国際開発インターンに携わり、ゼミではコンゴ民主共和国でのフィールドワークを行いました。実際の現地で世界の不平等な部分や挑戦機会の差を目の当たりにし、自らの人生の問いが変わっていきました。なぜ同じ人間でも、挑戦できる人とできない人がいるのかという疑問を強く抱くようになり、そこから「誰もがチャレンジできる社会をつくる」という人生の軸が定まりました。
——体育会での経験は、現在にどのように活きていますか?
大きく2つあります。1つ目は、ストレッチ目標を掲げる習慣。ジュビロ時代の監督から学んだ姿勢です。背伸びする目標を置き、そこに向けて努力する。その考えは今も変わりません。2つ目は、うまくいかない状況でも「やり続けるしかない」と腹を括る力です。体育会に所属していた時、大人数の中で評価をされることや、試合に出るということは難易度の高いものでした。どれだけうまくいかないことがあっても諦めずにやり遂げるために挑戦し続ける。その経験は、スタートアップでうまくいかない時期でも、目標に向かって進み続けることや地域事業の不確実な環境で粘り強く当たり前のことを積み重ねることにつながっているように感じています。体育会での経験を通じて、挑戦を続け、難しい環境でもトライし続けてきたからこそ、目の前にうまくいかないことがあったとしても、諦めることなく向き合うことができているように思います。
——卒業後、キャリア選択はどのようになさってきたのですか?
大学卒業後は、新卒でレバレジーズに入社しました。正直、当時は就職活動よりもゼミでの活動に力を注いでいたため、これだという軸もなかったのですが、アフリカでの経験を通じて、世界の社会課題に対して人に関するビジネスで向き合いたいという気持ちが強くなり、海外展開を予定していたレバレジーズへの入社を決めました。コロナ禍での就職となったため、当初予定していた海外事業部での配属が難しくなってしまいましたが、配属されたIT人材特化の部署にて、まずは目の前の環境で成果を出すことに向き合いました。その積み重ねが次の選択肢を広げると信じ、100社以上の採用支援を担当しました。実際に人材領域に携わる中で、人の可能性を広げていく仕事の魅力を感じ、教育ど真ん中で仕事ができるFoundingBaseへ転職しました。留学先で感じた地域による機会格差を埋めるため、山口県で探究型のオルタナティブスクールを立ち上げ、塾長として運営を担い、教育委員会と連携しながら、コンセプト設計から実行までを担当する中で、環境が人をつくるという実感が強まりました。さらにベースミーでは、より多くの若者に機会を届けたいという思いから、カスタマーサクセスやコミュニティ事業の立ち上げに挑戦しました。これまでのキャリアで一貫しているのは「誰もがチャレンジできる環境をつくる」という軸です。肩書きや職種よりも、自分がどんな問いに向き合いたいのか、その問いに正直であることを大切にしながら選択を重ねてきました。

——現役部員へメッセージをお願いします。
違和感に敏感でいてください。「本当にこのままでいいのか?」という問いから逃げないでほしいと思っています。世の中には意味があるのか分からない時間も多くあると思いますが、自分なりに納得するまで考え抜いた経験は、必ず将来の軸になります。体育会での時間は、勝ち負け以上に自分自身との向き合い方を学ぶ時間だと感じています。そして、その経験は競技を離れても一生残っていきます。自分自身の可能性を信じ、他者の可能性も受け入れ、違和感に向き合い続けた先に、必ず自分だけの道が拓けると、私は本気で思っています。
体育会で過ごす時間は、将来を保証するものではありません。しかし、自分自身と向き合い、葛藤し、挑戦を重ねた経験は、社会に出てからの判断軸として残り続けます。潟中さんの歩みは、競技の延長線上にキャリアがあるのではなく、自分の問いと向き合い続けた先に道があることを教えてくれます。グラウンドで培った努力と違和感への誠実さは、今もなお、彼の原動力になっています。

潟中 弘貴(かたなか ひろき)
1996年生まれ、静岡県出身。慶應義塾大学SFC卒業。U-16サッカー日本代表キャプテン。トビタテ留学JAPAN日本代表6期生として南アフリカで国際開発インターンを経験。新卒でレバレジーズ入社後、FoundingBaseにて教育事業立ち上げを担う。その後ベースミーに参画し、コミュニティ事業を推進。現在は教育・キャリア領域で複数事業に関わりながら、誰もがチャレンジできる社会の実現を目指している。