安定した大企業を離れ、サッカークラブの立ち上げを選んだ理由——一橋大学アメリカンフットボール部OB 高橋純一
地域でプロサッカークラブを立ち上げ、その運営に携わっている高橋純一さん。一橋大学ではアメリカンフットボール部に所属し、専属の指導者がいない環境で、学生同士で練習や戦術を考えながら競技に向き合いました。卒業後は東京電力に入社しましたが、東日本大震災をきっかけにスポーツの世界へ転職。藤枝MYFCの立ち上げに関わった後、その後、スポーツX株式会社で新しい地域へのクラブ立ち上げを担当しています。今回は、高橋純一さんに体育会時代の経験と、その後のキャリアの選び方について話を聞きました。
——これまでのご経歴と、現在のお仕事について教えてください。
出身は宮城県仙台市です。競技は時期によって変わっていて、中学では陸上部で1500mを走り、高校ではサッカー部に所属していました。大学でアメリカンフットボールを始め、社会人になってからも2年間、社会人アメリカンフットボールのX2というカテゴリーで競技を続けていました。
仕事では、2008年に東京電力に入社しました。4年ほど働いた後、2012年1月に、藤枝MYFCを運営する、株式会社MYFCへ移りました。その後、2018年1月から現職のスポーツX株式会社に在籍しています。
スポーツXは、プロサッカークラブの運営や、地域へのクラブ展開、スポーツに関するコンサルティングをしている会社です。コンサルティングだけでなく、自分たちで直接クラブを運営している点が特徴です。現在は福島と京都で合わせて3つのクラブを運営していて、選手が80人ほど、スタッフが40人ほどいます。私自身は、新しい地域でクラブを立ち上げる仕事を担当しています。
——大学のアメリカンフットボール部は、どのような環境でしたか?
国立大学だったこともあり、専属のプロコーチや常に指導してくれる人がいる環境ではありませんでした。監督は当時、外資コンサルティングファームに勤めていて、仕事の合間に指導へ来てくれていました。
そのため、練習メニューや戦術は学生が主体となって決めていました。それでいて、所属していたのは関東一部リーグという一番上のカテゴリーです。同じリーグには、当時日本一だった法政大学もいました。
どうすればその相手に勝てるのかを、学生同士で突き詰めて考えていました。特に4年生のときは、深夜まで戦術や練習内容について話し合っていた記憶があります。目標に向かって試し、うまくいかなければ修正し、また続ける。その繰り返しでした。
——大学時代、最も苦しかった経験を教えてください。
大学3年生のころ、自転車でグラウンドへ向かおうとすると、吐きそうになることがありました。今思えば、それだけプレッシャーを感じていたのだと思います。
当時、ディフェンスバックのポジションリーダーになりました。後輩には模範となるプレーを示す必要があり、同時に先輩たちの存在も意識していました。練習はすべて動画で撮って毎日振り返っていたので、下手なプレーはできないと気負っていました。
その結果、2年生のときから思い切りがなくなり、自分の思うようなプレーができなくなりました。最終的にはスタメンから外れてしまい、精神的な打撃を受けました。
コーナーバックは、相手に抜かれると失点に直結しやすく、ミスが目立ちやすいポジションです。ただ、縮こまっていては評価もされません。そこからは、周りの目を気にするのをやめて、思い切ってアグレッシブにプレーし続けようと割り切りました。もともと切り替えは早い方だったことにも助けられて、少しずつ改善されていきました。

——卒業後は、どのような経緯で東京電力に入社したのですか?
正直に言うと、当時は就職活動に十分向き合えていなかったと思います。仙台で生まれ育ち、一度は東京で一人暮らしをしてみたいという気持ちで一橋大学に進みましたが、就職のときは地元の東北に戻ろうと思っていました。
ただ、企業研究はほとんどしていませんでした。知っている地元の会社という理由で、東北電力を中心に受けていました。すると、一橋大学アメリカンフットボール部の15年上の先輩で、東京電力に勤めている方が声をかけてくれました。「東北電力を受けている後輩がいる」と聞いて、「東京電力も受けてみたら」と声をかけてくれたのです。
最終的には、東北電力と東京電力の両方から内定をいただき、東京電力に入社しました。当時の自分には、明確にこの業界で何かを成し遂げたいという思いはありませんでした。ただ、電気は誰にとっても欠かせないものです。当時の東京電力は、海外の発電インフラや介護など幅広い事業をしていたので、さまざまな挑戦ができそうだと考えていました。
——安定した大企業から、なぜスポーツの世界へ移ったのですか?
地元のベガルタ仙台が、小学生のころから好きでした。父と一緒にスタジアムへ通っていて、普段は淡泊な父がゴールのたびに熱狂している姿を見て、スポーツには人を動かす力があると感じていました。
選手にはなれないけれど、裏方としてスポーツに関わる仕事ができたらいいなとは、高校のころからぼんやり考えていました。ただ、待遇などを考えると仕事にするのは難しいだろうと思い、具体的には動いていませんでした。
転機になったのは、東日本大震災です。社会人3年目のときでした。震災から1ヶ月後、ベガルタ仙台対川崎フロンターレの試合を画面越しに見て、泣きながら応援している人たちの姿に触れました。スポーツが人に力を与えていることを、改めて感じた瞬間でした。
多くの方が亡くなった出来事を前にして、挑戦しないまま安定した大手企業で仕事人生を終えるのは違うと思いました。仕事はやり直せても、命はやり直せない。そう考えるようになり、震災から半年ほど経った2011年9月に転職活動を始めました。
当時は、スポーツ業界の正社員求人がほとんどありませんでした。その中で、藤枝MYFCが求人媒体に法人営業の募集を出していました。変わったクラブだなと思って応募しました。
藤枝には縁もゆかりもありませんでしたが、面接で代表の小山から、藤枝からJリーグのチームを生み出すだけでなく、今後いくつもスポーツチームを立ち上げて世界を豊かにしていく、という話を聞きました。1チームの存続さえ大変なはずの状況で、果てしない構想だとは思いました。ただ、クラブのない地域にも、自分が体感してきたようなものをつくっていける。それは生涯やり続けられる仕事だと感じ、入社を決めました。
——藤枝MYFCでは、どのような仕事をしていたのですか?
入社してから2年ほどは、朝から夜遅くまでクラブの立ち上げに奔走していました。今の体力では同じような働き方は難しいですが、当時はそれほどまでに必死でした。
仕事の中心は法人営業です。スポンサーや株主になっていただくために、地域の企業の経営者を訪ねていました。代表の小山と、私とほぼ同時期に入った中途のメンバーの3人で、日に5〜6社を回るのです。夜はその商談を全員で振り返り、次にどう提案するかを、毎日話し合っていました。
ここまで動けたのは、自分たちの頑張りがクラブにそのまま返ってくる感覚があったからです。小さな組織なので、スポンサーや応援してくれる人が一人増えることが、クラブに直接効いてきます。営業が良い形で進むとチームに還元でき、チームが昇格すると営業もしやすくなる。その手応えがありました。
東京電力は多くの社員がいる組織で、自分の仕事が回り回ってお客様の満足につながる形でした。藤枝MYFCでは、すべての業務を自分たちで担う必要がありました。その責任とやりがいを直接感じられたことが、大きな違いでした。
——プロサッカークラブが地域にあることに、どのような意味があると考えていますか?
サッカーが好きな人は、黙っていても応援してくれます。ただ、世の中全体で見ると、サッカーに関心がある人の方が少数派です。それでも、藤枝市のような地方都市では、スポーツクラブが地域をまとめるハブとして機能しやすいと感じていました。
業界ごとの団体だと、どうしても利害関係やライバル関係が出てきます。スポーツは、そうした垣根を越えやすい存在です。実際に、普段はライバル関係にある企業同士が、一緒にスポンサーになってくれることもありました。自治体と企業、企業同士、企業と住民をつなぐ役割を果たせるところに、スポーツクラブの意味があると思います。
経済の面でも、アウェイのお客様が来れば、宿泊や飲食で地域経済が活気づきます。人の交流も生まれます。クラブがなければ生まれなかった動きです。
もう一つやりたいのが教育で、これは福島で形にしようとしています。学問的な学びというより、スポーツを通じた相互理解です。福島というと、原子力発電所の事故によって偏見を持たれることもあります。ただ、実際に来てもらえれば、食べ物がおいしいことや地域の魅力が伝わります。海外の子どもたちを呼ぶような取り組みも、クラブという拠点があるからこそできると思っています。
サッカーに興味がなくても、地域や次の世代のために応援してくれる人がいます。そこが、スポーツクラブの面白いところです。

——体育会での経験は、現在の仕事にどうつながっていますか?
最もつながっているのは、決めた目標に向かって行動し続ける力です。大学のアメリカンフットボール部では、法政大学に勝つという目標に向けて、試してはうまくいかず、修正してまた続けることを繰り返してきました。
今の仕事にも、同じ感覚があります。営業でも、毎回大きな成果を出せるわけではありません。それでも、目標として決めた行動はぶらさずに、どう工夫するかを考えながらやり続ける。歩みを止めないことは、今でも意識しています。
もう一つは、切り替える力です。スタメンから外れたときもそうでしたが、すべてがうまくいくわけではありません。うまくいかなかったことを引きずりすぎず、次に向かう感覚は、営業でも欠かせないと思います。
地味ですが、体力面も大きいです。社会に出ると、体調管理ができているかどうかで差が生まれてきます。学生のうちに体を動かしてきたことは、一つの貯金になっていると感じます。
——今後のキャリアに悩む現役の体育会学生へ向けたメッセージをお願いします。
自分自身の反省も込めて、まずは授業を主体的に受けてほしいと思います。大学には多様な分野の先生がいますが、私はそれを十分に生かせませんでした。社会人になってから、もっと学んでおけばよかったと感じています。
部活の仲間だけで過ごしていると、どうしても閉じたコミュニティになりがちです。授業や部活以外で多様な人と関わったり、国内でも海外でも違う歴史や文化に触れたりすることは、視野や価値観を広げてくれると思います。
就職活動についても、私はあまり真剣に向き合えていませんでした。もし今やり直すなら、どの会社に行くかだけでなく、自分は社会のどの部分に関わりたいのかを少しでもはっきりさせると思います。私の場合は、特定の企業や業界へのこだわりがあったわけではなく、誰もが使う電気のようなものに価値を感じていました。
同時に、社会人としてのマナーや作法は、大企業だからこそ学べた部分もあります。もしもう一度選ぶとしたら迷うところですが、何が正解かは人それぞれで、一つの答えがあるわけではありません。
ただ、決めた目標に向かって続ける力や、うまくいかないときに切り替える感覚は、競技をやってきたからこそ身についたものだと感じています。今取り組んでいる競技を、自分にとってどのような経験として捉え直すか。その視点を持っておくと、卒業後にも役に立つのではないかと思います。
高橋 純一(たかはし じゅんいち)/ スポーツX株式会社 執行役員
宮城県仙台市出身。一橋大学体育会アメリカンフットボール部OB。2008年に新卒で東京電力株式会社へ入社し、東日本大震災をきっかけにスポーツ業界へ転じる。2012年に株式会社藤枝MYFCへ入社し、経営企画や法人営業を担当。2017年、藤枝MYFC創業者の小山淳氏らとともにスポーツX株式会社の設立に参画した。現在は同社執行役員として、おこしやす京都AC・福島ユナイテッドFC・福島ユナイテッドFCセカンドの多地域展開と、新しい地域でのクラブ立ち上げに携わっている。